50年のあゆみ
商業都市として発展してきた小樽は、かつて道内産出の石炭や農産物を積み出す商港として栄え、北海道のウォール街と言われるほどのビル街をつくり上げた。
商港として発展するきっかけになったのは明治13 年に手宮と札幌をつなぐ鉄道が開通 したことである。
これは内陸の幌内炭鉱の石炭を積み出すためであったが、北海道の行政の中心である札幌を背後にひかえて、ただ石炭の積み出しだけでなく日本海の最大の海外貿易の拠点として、明治から大正にかけて著しい繁栄をみた。
ことに第一次大戦の折には、ヨーロッパの 食糧不足を背景に農産物の輸出で利益を生み、 ビルや倉庫がつぎつぎに建てられ港の施設も 拡張されていったのである。
同時に明治37年の大火以後、小樽独特の「木骨石造商家」という不燃建築も普及し商業都市としての建物が並んだ。これらの町並みは今、道内でも貴重な建築遺産となっている。
特に多くの建築家たちには、小樽の建物が明治中期から大正、昭和にかけての建築史を見るように興味を示す。
小樽の建設業界は明治中期より請負師と称するいわゆる土建的職業が始まり、主として土木工事が先行していた。函館と並んで栄えた小樽に高らかに建設の槌音が鳴り響いた。
その小樽に正式な同業組合が出来たのは大正13 年9 月に北海道庁より認可を受け小樽土木建築請負業組合として発足、初代組合長に世継仁作氏がなり小樽全体の建設面を請け負った。当時、組合員の大半が土方上がりの土木業者であって、建築業者は大工の親方と言われた人々で、別に大工組合として現在も続き今は建築技能士組合となっている。2 代目組合長に世継氏と同じに土木業者出身の八田要蔵氏が、3 代目組合長に橋本博介氏。4 代目に道庁の役人を退官して小樽に土木建築業を開業した金垣幸助氏と続いた。
その後、昭和に移行していくのだが、昭和初期の大不況時代も各組合員の興亡の中、よく耐え、 昭和12年 5 月小樽土木建築業組合 と改称、請負の字を削除する事となった。この頃 5 代目組合長に野上善太氏が就任、従来のいわゆる古い殻を捨てた時代に合う近代的な連合会として発足した。野上善太氏の会社に現在の阿部建設前社長の故阿部毅氏が一番番頭でおり、その実績を受け継ぎ独立した。
この頃より土木工事が少なくなり建築工事が多く、従って組合員も建築業者のウエイトが高くなってきた。永い間、北海道土木建築組合聯合会長であった小樽大虎組出身の新開新太郎氏が 引退 し、伊藤組社長で あった伊藤豊次氏が聯合会長となった。この頃から親睦団体であった組合 も、 満州事変により業務統制時代となり資材の不足と共に、建設資材も又、重点配給を強いられ、特に銅については使用制限を受け組合において申請手続きを取り扱うこととなった。
その後、亜鉛引鉄板の配給、続いて綿製品の軍手、ズボン、手ぬぐい、シャツ等、又、鉄鋼綿材の配給切符制による事務処理と総て組合を通して申請して配給を受けることになった。
組合長 6 代目萬伴作氏の頃には、日米開戦も始まり建設資材は全て戦争のための貴重な資材となり又、組合も軍及び戦のための軍需用の建設に協 力体制を とる事で、 昭和18年3月小樽土木建築統制組合と改め臨んだが、業界の困難は最高を極め転廃業の止むを得なき状態になってしまった。
そして敗戦を迎えた。まるで廃虚と化した日本、その中で小樽はまだ物質的にダメージが少ない方であった。それでもまず郷土復興は建築よりと、我が業界は昭和 21年はやくも戦後の混乱の中から立ち上がり、親睦と共存共栄をはかるべく、小野末吉氏、高橋敏男氏など有志が要となって組合の再建を計画実現させた。当協会の原点である小樽土木建築業組合誕生の時代で初代組合長に小野末吉氏が就任。 爾来、変遷を 遂げなが ら50年星霜 を乗り越え、歴史を刻み今日を迎えた。
創立の時代に戻ると、その後小樽土木建築業組合は各地に同様組合が設立され北海道土建協会という併合組織となり北海道建設協会と改称する のを受けて、 昭和24 年 1 月小樽建設業協会 と名を改めた 。 昭和36 年、 2 代目会長に高橋敏男氏が継ぎ、事務所を現建設業会館の場所に新設した。その後、高橋敏男会長は昭和50年ま で会長職を 務める。
この間、 昭和29年9 月、岩内町の大火に より、その復興に建築業者が総動員 された。 この頃を境に、協会内での性格の違いが指摘され、 昭和40年後志小樽土建協会 と小樽建設業協会合併で小樽建設協会と改称されたのを機に、前々か ら論議されていた両協会の性格 、体質の違いから、その解決策として開現部会と樽友部会の2つの組織に分化 した。
昭和45年、小樽の明日の繁栄のため、地域内在住の業者による連絡組織体を考え、小樽建設事業協会を創設 し、その初代会長に高橋敏男氏が就任した。
その後は当協会に入会する企業も増え 、盤石な活動を続け、数々の事業を 展開 して来た。
木と竹と藁から、鉄とガラス、セメント、化学資材、ハイテクを駆使し、新しい街づくりに大きく寄与しようという姿勢をうちだし郷土小樽の繁栄と共に、一段の飛躍を遂げようとしている。
エピローグ ー 21世紀のビジョン 一
かくして、 戦後50年を生 き抜いて きた当協会並びに会員個々の歴史は、まさに我が国の戦後50年史そ のものであり、 幾山河を 踏み越えてきた苦闘 と栄光の歴史で あった。
今や、21 世紀を 指呼の間に迎えて、希望と不安が予想される新世紀に 対応 して、 我々建設業は一体 ど う あるべきか。平成 7 年に 発表された国の建設産業政策大綱、つまり2010年まで15年間にわたる中長期の将来展望における「 3 つの目標」 は、
1) 国民の ニーズに 対応す る目標
——————————高品質のものを安く提供
2) 経営体に 対する目標
——————————技術と経営に優れる企業が自由に伸び得る競争環境づく
3) 建設産業に 働く 人び とに対する目標
——————————技術と技能に優れる人材が生涯を託せる産業づくり
である。
平成8年以降
平成8年(創立50周年)以降、当協会はリーマンショックなど内外の厳しい経済環境の中にあっても着実に歩み続け、平成28年(創立70周年)には、会員数34社を抱える協会に発展・成長して参りました。
この間、災害時の市民の生命、身体及び財産を守るため、平成22年に小樽市との間で、「小樽市所管都市施設における災害時の協力体制に関する協定」、いわゆる防災協定を締結したのを始め、平成26年には石狩湾管理組合との間で「石狩湾新港管理組合所管組合所管港湾施設における災害時の協力体制に関する協定」を締結し、災害の拡大防止と被災施設に早期復旧に向けての体制づくりを進めています。
この大綱に基づき、目標を 2000年とした第 1期 ( 5 年間) の戦略プログラムを策定、 そのうち の 5 つの事業推進は、
1) 技術者の育成
2) 経営基 盤の強 化
3) 生産工程改善、 新技術の開発
4) 情報化の推進
5) 総合的品質向上
である。
以上の大綱、並びに戦略プログラムを受けて、全国建設業協会(全建)は、本会並びに会員企業の将来像や、指針、方向について、新しい競争の時代に適応 した 「全建 ビジ ョ ン」を発表した。つまり要略すると、
1) 地方の 優良中小企業 と しての経営 ・体質の強化
2) 優秀な 技術者 ・ 技能者の確保 と育成に よる現場労働生産の向上
3) 発注の平準 化
4) 入札、 契約制度、 履行保証制度、 ダン ピング防止問題など
5) 安全対策の 推進強 化
6) 国際化への 対応
ということである。
当協会並びに会員企業は「全建ビジョン」の指針を踏まえ、地域のニーズを把握し、地域密着型経営に徹することにより、地域エキスパートを目指す、つまり地域住民のニーズに対応し、しかも信頼される建設業を目指し、当会の創立 50年を記念 して、 会員一致団結、一層決意を新たにしよう。
以上「幾山河」より